今から約180年前の日本と世界で、私たちの文化にとって重要でたいせつな二冊のベストセラー本が生まれました。 最初の本は、日本人作者と国内の出版社の手によって著されて、日本から世界へと広まり、もう一方は海外の出版社を通じて日本人に向けて、ひっそりと、しかし確実で大いなる計画の下に発行されました。その二冊の本とは、浮世絵「東海道五十三次」と現存する「世界初の和訳聖書」です。
今年も聖書の邦訳に協力した船乗りたちを記念した式典が特別ゲストを迎え盛況のうちに開催されました。(http://www.bible.or.jp/contents/soc/pdf/53th_shikiten.pdf)
世界初の聖書和訳に協力した三名の船乗りの中に、後に国際的なビジネスマンとなっていった人物がいます。その名は音吉、後に彼は自らをジョン・マシュー・オトソンと称しました。
彼はアメリカへ上陸した最初の日本人。ロンドンを訪れ、その後イギリスに帰化した日本人の第一号。そして、日本人として初めて船で世界一周をした人物です。音吉顕彰会によれば、音吉の人物像が上述のようであったことが伺えます。また、彼の出身地では、日本最初の国際人としてたたえられています。
正月を間近にした、1832年11月3日(天保3年10月11日)に乗員14名で積載量が150トン程の宝順丸という長さ15メートル位の千石船で、江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後アメリカ西海岸へ漂着します。
その後イギリス経由でマカオに送られ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフの聖書の和訳に協力、翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし残念なことに同邦からの砲撃を受けたため、帰国を断念せざるを得ませんでした。
その宝順丸が遭難した直後の日本を、天保の大飢饉が襲います。江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模となった飢饉です。またほぼ時を同じくして、日本では一つの現象が起こります。それは旅ブームと広重の浮世絵「東海道五十三次シリーズ」の大ヒットです。これらの作品はのちに海外でも高い評価を得ました。
その中のひとつ、隷書東海道五十三次の中に、音吉らが日常的に見ていたと思われる、当時の宮宿(現在の名古屋港)の風景が描かれています。
さて、尾張地方出身の三人の若者が協力した聖書とはどのような内容だったでしょうか。現存する最古の日本語訳聖書である「ギュツラフ訳聖書ヨハネ伝」が、その初版・原本(1837)からの復刻版に加えて、朗読音声付の現代版をも収録された形で発行されています。(http://www.bible.or.jp/purchase/newbible/gutzlaff.html)
その文章からは、名古屋港を中心に働いていた若者の素朴な言葉づかいが聞こえてきます。
彼(ヒト)は自身の屋敷へ参った。ただしは、自身の人間は彼(ヒト)を迎えに出なんだ。
ヨハンネスの喜びの便り 1章 11節
これらの素朴な文章の中にある精神は、後に多くの宣教師やキリスト者たちを動かし、以下のような高貴で力強い訳を生み出していきました。
それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。 ヨハネの福音 3章 16節(文語訳)
これらは、神が人となって地上にご降誕された出来事にもとづいて、使徒ヨハネが綴った言葉です。 まもなくクリスマスのシーズンがやってきます。世界初の聖書和訳に協力した音吉、後に自らをジョン・マシュー・オトソンと名乗った人物も、上述の聖書に記されたイエス・キリストに関する言葉の意味を、苦難に満ちた自身の体験を通じて、深く悟っていたに違いありません。 メリークリスマス、そしてハピーニューイヤー!
【参考リンク】
音吉顕彰会公式ホームページ
http://www.otokichi-i.com/
にっぽん音吉漂流の記
http://www.town.aichi-mihama.lg.jp/docs/2013100806067/
七里の渡し(宮の渡し公園)
http://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000005036.html
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiroshige,_View_of_a_harbour.jpg#mediaviewer/File:Hiroshige,_View_of_a_harbour.jpg
現存する最初の日本語聖書
http://www.bible.or.jp/know/know17.html