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えいこくじきりしたんいせきはくぶつかん
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栄国寺・切支丹遺跡博物館
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名古屋市内に「切支丹(キリシタン)遺跡博物館」があることをご存じですか?
栄から南へ地下鉄で10分。名城線「東別院」駅で下車し、西へしばらく歩くと、東別院の北裏に気をつけていないと通り過ぎてしまいそうな所に「栄国寺」という寺があります。
この寺こそ、かつて江戸時代の初期に尾張のキリシタンを処刑した場所であり、余りにも多くのキリシタンを処刑したのでその霊を弔うため後になって建てられた寺なのです。
そして現在その境内に「切支丹遺跡博物館」があり、数々のキリシタンにまつわる遺品が展示されています。
尾張地方では織田信長のキリスト教に対する寛容な政策のため、宣教師たちが他の地域に先駆け熱心に伝道したことに加え、「尾張のコンスタンチノ」と呼ばれた一人の日本人信者の熱心な勧めで、多くの人がキリシタンになっていたそうです。
天正9年(1581)に尾張には約二百人の切支丹がいたといわれていますが、ほとんどすべてこのコンスタンチノが洗礼をさずけた人たちであったそうです。
また秀吉による弾圧で長崎で処刑された日本26聖人(1597年)の中には尾張出身者が5人(鈴木パウロ・茨木パウロ・たけ屋コスメ・鳥丸レオン・ルドビコ)もいますが、この5人の中の何人かはコンスタンチノによりキリシタンになった者だそうです。
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さて話が前後しますが栄国寺の西約1キロほどの所に「日置神社」があります。
この神社は織田信長が桶狭間の合戦
(1560)に出陣の途中、必勝を祈願した神社で後日、信長は戦勝した御礼に神
社に千本の松を寄進したので、この辺りは千本松原と呼ばれるようになりました。
今も松原町という地名が残っていますが、当時は城下町のはずれで、千本
松原は処刑場となっていました。
江戸の初期には、ここで刑死者の屍を藩士の新刀の試し斬りに使っていたそうで、
その中には死刑となったキリシタンもいたことでしょう。その地は現在、
栄国寺の東にある橘公園のあたりだそうです。
現在、栄国寺には「切支丹遺跡博物館」の他、境内にあるキリシタンが処刑
されたという場所が「千人塚」として残され、処刑に使った槍を立てかけたといわれるくすの木が、
当時を偲ばせるかのように、今もうっそうと茂っています。
●参考文献
名古屋市教育委員会発行 「ここに歴史が」
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●栄国寺・切支
丹遺跡博物館
月曜定休 (9〜17時)
TEL : 052-321-5307
名古屋市中区橘1-21-38
※地下鉄名城線「東別院」下車
西へ徒歩約8分
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江戸時代後期の1832年10月、鳥羽から江戸へ向った千石船「宝順丸」が遭難し、
14カ月に渡る漂流の末、北アメリカ西海岸のフラッタリー岬に漂着しました。
生き残った船員は知多半島の先端、美浜町小野浦出身の岩吉、久吉、音吉
のたった3名でした。鎖国のため日本に帰ることができなかった3人は、やがてマ
カオに到着し宣教師カール・ギュツラフの聖書翻訳を手伝います。 その成果が「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まる全文カタカナ
で書かれた「約翰福音之傳(ヨハネ
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福音書)」と「約翰上中下書(ヨハネの手紙1、2、3)」で、現存する最初の日本語聖書です。
この3人の物語は、作家の三浦綾子が「海嶺(かいれい)」という名前で小説化し、後に映画化もされています。
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岐阜県八百津(やおつ)の出身で、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人を救ったことから、「日本のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝(1900-1986)が、その若き日をもっぱら名古屋市内で過ごしていたことをご存知ですか?名古屋市中区・金山駅北にある平和小学校の校庭には、同校(旧:古渡尋常小学校)の卒業生である杉原千畝(すぎはら・ちうね)を記念したチウネチャイム(平和の鐘)が建っています。
外交官であった千畝は第2次世界大戦の最中、バルト三国の一つ、リトアニアで日本領事代理として働いていましたが、リトアニアを去る前の1ヶ月間、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民に対し、千畝は日本政府
の意向に反して日本通過のビザを発行し続けました。
その「命のビザ」により、生き延びることができたユダヤ人は6000人余りにのぼると言われています。
千畝は若かかりし頃、中国のハルビンに留学していましたが、そこでキリスト教に触れ洗礼を受けました。ユダヤ人難民を前にして千畝が取った行為には、単なる人類愛、ヒューマニズムを超えて、その根底に神の前に生きる誠実な一クリスチャンの姿勢、信仰がうかがえます。
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